@宗吾霊堂
@宗吾霊堂
正しくは鳴鐘山東勝寺という真言宗豊山派のお寺。
この場で処刑された佐倉宗吾の霊を弔うためこの地に移って建てられたといいます。したがって本尊は、本来真言宗では大日如来ですが、ここでは本尊は佐倉宗吾になっています。
.撮影:岡本 信夫
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A佐倉宗吾の墓
A佐倉宗吾の墓
宗吾(本名 木内惣五郎)は、佐倉藩の苛政に疲弊しきっている農民を助けようと何度もその窮状を訴え出ますが取り上げられず、ついに将軍に直訴。ようやく願いは叶えられますが、直訴は斬罪。その後子供4人とともにこの地で処刑されました。親子の墓には今も線香の煙が絶えません。
.撮影:岡本 信夫
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B麻賀多神社の大杉
B麻賀多神社の大杉
樹齢1300年と言われる東日本随一の大杉。1300年と言えば、来年が奈良・平城に遷都してから1300年。随分古いですね。古さゆえか、今は不老長寿のご神木として崇拝されています。
麻賀多神社は子育て・安産の神様。でもこの日お参りしたほとんどの人は本殿を通り越して大杉に直行していたように見受けましたが。
.撮影:岡本 信夫
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C宗吾旧宅
C宗吾旧宅
宗吾が処刑されてから凡そ150年後に佐倉藩から許された子孫が住んでいた家。宗吾の位牌や古文書があります。
宗吾霊堂発行の「実説佐倉宗吾伝」によりますと、宗吾が処刑されたのは承応2年(1653年)8月3日とあります。河出書房新社の「日本史年表」によりますと、宗吾が直訴したのは同年12月20日とあります。処刑された人がどうして直訴できるのでしょうか。
このほかにも直訴した日、処刑された日がまちまちなのが沢山あります。真相は如何に。今や宗吾の事績そのものがはっきりしません。
.撮影:岡本 信夫
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D行軍
D行軍
宗吾旧宅からは田圃の中の道を行きます。晴れていれば行く手に筑波山が見えます。
.撮影:岡本 信夫
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E薬師寺
E薬師寺
こんなところに何故と思うところに鎌倉時代の古刹。良い雰囲気の場所でした。ちょっと一休み。この辺り、かつて舟運が盛んのころ河岸があったと言います。
.撮影:岡本 信夫
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F本尊薬師如来
F本尊薬師如来
お堂の前にあった解説板の、県指定重要文化財の薬師如来と印相が違いますね。成田市の生涯学習課に聞きましたところ、写真のは「前立」で、文化財の方は奥に安置してあると、親切に教えてくれました。では前立ちの製作はいつ頃のものですかとお聞きしたら、「いやー、そこまでは分からんなー」とのことでした。
.撮影:岡本 信夫
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G六地蔵
G六地蔵
分かれ道の角にあった六地蔵。手を合わせる人、無視して通り過ぎる人。丹念に調査?する人。様々ですね。
「これが正真正銘真面目なお地蔵さん」「では良く見る1体のお地蔵さんは?」「あれはろくでなし」そんなことは無いか。
.撮影:岡本 信夫
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H甚兵衛渡し跡
H甚兵衛渡し跡
ここで大休止。この辺り今は干拓され田圃になっていて、印旛沼の岸辺は300mほど先になる。
.撮影:岡本 信夫
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I首都圏ふれあいの道
I首都圏ふれあいの道
甚兵衛渡し跡から下総松崎まで5.3km。チュウヒやタゲリなどを観察しながら田圃の中の道をひたすら歩きました。
.撮影:岡本 信夫
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Jマガモ
Jマガモ
本物そっくりで騙されました。逃げないよう恐る恐る近付いていく姿を設置した人が見ていたらおかしかったでしょうね。
.撮影:岡本 信夫
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